Condolences
2011年2月15日 日常 コメント (4)金曜日、最愛の伯母が急死した。入院していた病院を抜け出し、近くの川で果てた。もちろん、最後は、誰も目撃はしていないので、事故だったかも知れないし、自死だったのかどうかは釈然としない。そして、それはどうでもよいことだ。
土曜の始発で札幌へ。痩せこけてはいたが、あたかも眠っているかのよう。目を覚まして起き上がってくるのではないかとさえ思われた。死化粧。おくりびとが施してくれたそうだ。享年64歳。早過ぎる。
ここ半年くらいの闘病生活だった。十数回も入退院を繰り返していたらしい。私は最後の入院のことしか知らなかった。ただ、最近、食べ物が喉を通らないので、私の飲んでいる栄養剤を送ってくれないかという連絡が母を通じてあった。その時、事の重大性に気付かなかった私は、余程の鈍感だったとしか言いようが無い。
近くにいるだけで太陽が射すように周りを明るく照らす人だった。タフで、決して弱音をはかない。だから、私は伯母を過信していた。看護師でもあったし、最新の医療事情には精通していたから、何とかするだろうと。この馬鹿馬鹿しい塾を辞める3月にはお見舞いに行けばよいかくらいに考えていた。
起きたことはどうしようもない。持病の甲状腺から肝臓へ、肝臓から腎臓へと、次々に病状が悪化し、従兄弟によれば、万策尽きたという状態だったらしい。そう諦めるしかないのだ。
こういう時、男ほど役に立たないものはない。集まった伯母達が、買い物や食事の用意と、何から何まで世話をしてくれた。私が仰せつかったのは、遺影の隣に飾る14~15枚のスナップ写真を選定する仕事だった。
こうして、私は、伯母が生まれて、どのような人生を歩んだのかというヒストリーを垣間見ることになった。セピア色、白黒、初期のカラー、そしてデジカメと、写真は刻々と趣を変えた。
強度の近眼で、眼鏡コンプレックスだった伯母。いかにも昭和初期と思われるガチガチのフレームから、スマートで洒落たフレームに次々と眼鏡を変えた。眼鏡を外した写真もたまにあった。しかし、聡明だった伯母は、実に眼鏡の似合う人だったのだ。
自信を持って選んだのは、生まれたばかりの長男を抱いて、心から嬉しそうな笑顔を見せる一枚だった。あらゆる祝福を独占したと言わんばかりの笑顔。本当に子供好きな人だった。職場でも子供に囲まれていた。その伯母が孫の顔を見ることもなく旅立った。
夫は脳梗塞、一人娘は癌で手術をしたばかり、一人息子はまだ就職ができない。このような4人家族を自分一人で救おうをした伯母。その無理が祟り、自分が倒れてしまったのは不本意だったに違いない。水すら飲めず、喉を乾かしていたという話を聞き、悲しみは増すばかりだ。
迷惑を掛けたくない、だから自分から身を引く。それがダイングメッセージだったように思われる。何と貧しい日本だ。叔父も伯母もケアハウスなどの施設で安心して治療を受けられるというのが国家の本来の姿だろう。スウェーデンという国を見てしまった私には、そう思えてならない。
葬儀は14日、15日にとり行われることとなった。今頃は火葬場だ。何としても参列したかった。職場が職場なら。結局、私は、昨日の昼に十勝へ戻り、塾へ直行した。滅茶苦茶な授業となったことは言うまでも無い。
予報によれば60%の確率で、十勝は大雪のはずだったが、たまたま低気圧がはずれ、晴天。水道が凍結しないよう水を抜かなければならないのに、そのまま出かけてしまったが、蛇口をあけると、ちゃんと水が出る。私は信心深くはない方だが、何か不思議なものを感じた。
いつも人を助けてばかりの人だった。何かあれば必ず見舞いに来てくれたし、様々な援助を厭わない人だった。だが、自分が他人に助けられるのは苦手で・・・。敬虔なカトリック信者だった彼女は、間違いなく、今は天国に到着し、たくさんの人に迎えられている。
伯母ではなく、私にとっては、友人であり、理解者だった。ともに過ごした時間を思い起こし、そのような時間を持てたことを光栄に思います。いつか、貴女の側へ参れるよう、残された日々を大切に過ごします。Goodbye my friend!
土曜の始発で札幌へ。痩せこけてはいたが、あたかも眠っているかのよう。目を覚まして起き上がってくるのではないかとさえ思われた。死化粧。おくりびとが施してくれたそうだ。享年64歳。早過ぎる。
ここ半年くらいの闘病生活だった。十数回も入退院を繰り返していたらしい。私は最後の入院のことしか知らなかった。ただ、最近、食べ物が喉を通らないので、私の飲んでいる栄養剤を送ってくれないかという連絡が母を通じてあった。その時、事の重大性に気付かなかった私は、余程の鈍感だったとしか言いようが無い。
近くにいるだけで太陽が射すように周りを明るく照らす人だった。タフで、決して弱音をはかない。だから、私は伯母を過信していた。看護師でもあったし、最新の医療事情には精通していたから、何とかするだろうと。この馬鹿馬鹿しい塾を辞める3月にはお見舞いに行けばよいかくらいに考えていた。
起きたことはどうしようもない。持病の甲状腺から肝臓へ、肝臓から腎臓へと、次々に病状が悪化し、従兄弟によれば、万策尽きたという状態だったらしい。そう諦めるしかないのだ。
こういう時、男ほど役に立たないものはない。集まった伯母達が、買い物や食事の用意と、何から何まで世話をしてくれた。私が仰せつかったのは、遺影の隣に飾る14~15枚のスナップ写真を選定する仕事だった。
こうして、私は、伯母が生まれて、どのような人生を歩んだのかというヒストリーを垣間見ることになった。セピア色、白黒、初期のカラー、そしてデジカメと、写真は刻々と趣を変えた。
強度の近眼で、眼鏡コンプレックスだった伯母。いかにも昭和初期と思われるガチガチのフレームから、スマートで洒落たフレームに次々と眼鏡を変えた。眼鏡を外した写真もたまにあった。しかし、聡明だった伯母は、実に眼鏡の似合う人だったのだ。
自信を持って選んだのは、生まれたばかりの長男を抱いて、心から嬉しそうな笑顔を見せる一枚だった。あらゆる祝福を独占したと言わんばかりの笑顔。本当に子供好きな人だった。職場でも子供に囲まれていた。その伯母が孫の顔を見ることもなく旅立った。
夫は脳梗塞、一人娘は癌で手術をしたばかり、一人息子はまだ就職ができない。このような4人家族を自分一人で救おうをした伯母。その無理が祟り、自分が倒れてしまったのは不本意だったに違いない。水すら飲めず、喉を乾かしていたという話を聞き、悲しみは増すばかりだ。
迷惑を掛けたくない、だから自分から身を引く。それがダイングメッセージだったように思われる。何と貧しい日本だ。叔父も伯母もケアハウスなどの施設で安心して治療を受けられるというのが国家の本来の姿だろう。スウェーデンという国を見てしまった私には、そう思えてならない。
葬儀は14日、15日にとり行われることとなった。今頃は火葬場だ。何としても参列したかった。職場が職場なら。結局、私は、昨日の昼に十勝へ戻り、塾へ直行した。滅茶苦茶な授業となったことは言うまでも無い。
予報によれば60%の確率で、十勝は大雪のはずだったが、たまたま低気圧がはずれ、晴天。水道が凍結しないよう水を抜かなければならないのに、そのまま出かけてしまったが、蛇口をあけると、ちゃんと水が出る。私は信心深くはない方だが、何か不思議なものを感じた。
いつも人を助けてばかりの人だった。何かあれば必ず見舞いに来てくれたし、様々な援助を厭わない人だった。だが、自分が他人に助けられるのは苦手で・・・。敬虔なカトリック信者だった彼女は、間違いなく、今は天国に到着し、たくさんの人に迎えられている。
伯母ではなく、私にとっては、友人であり、理解者だった。ともに過ごした時間を思い起こし、そのような時間を持てたことを光栄に思います。いつか、貴女の側へ参れるよう、残された日々を大切に過ごします。Goodbye my friend!
コメント
コメントありがとうございます。伯母一家の今後が心配です。
まだ詩集を読めていません。読了後、コメントします。
心からご冥福をお祈りいたしております。
辛い時期が続くことでしょうが、
どうぞ・・
思いで多き方の分まで
人生を楽しみ生きてくださいましー
それが唯一
なによりもの供養となることでしょうー
きっと・・・
お元気出してくださいましー
listerさん!
ありがとうございます。
伯母の分も生きてやろうと思います。