春の嵐

2013年4月8日 日常
まあ、何とか晴れてくれたが、突風が危ないくらいに吹く。

母を病院へ。診察が終わるまでミスドで待っているよ、と。この前、ミスドに行ったのはいつだったか?

5個くらい食べて幸せだった。コーヒーが美味しくて、おかわりして、国文学の解釈論に関する雑文を読む。国文学って存在感が薄いな。

例えば、同じ源氏物語からそんなにたくさんの解釈が生まれるのだろうか。

マルクス主義国文学なんてものもあったらしいが、もう誰も後を継がない。マルクス被れがこんなところにもいたのか。ジェンダーもあった(過去形?)?

そういう極端が止んだ後、国文学の解釈はどこかで止らないのかと考えていたら、ヨーロッパ文学との比較で源氏物語を読み直すなんてことをやっている。

そういう比較ならばバリエーションはいくつでもあるわけで、村上春樹との比較で読む源氏物語などどうであろうか。

こうして、重箱の隅をつつく国文学者は、大学に籍を置けば、永遠に飯を食っていけるのである。

じゃあ「比較」とは何か?何のために比較するのか?なんて質問をすれば、しどろもどろになる連中が多いだろう。

なんてこったぁ~どうでもいいなとあくびをしていたら、母から電話があり、病院まで迎えに行く。

道すがら、高校生のグループを見かける。そう、今日は入学式なのだ。どの顔も喜びに溢れ、実に初々しい。強風の中、元気良く歩いている。

私にもそういう時期が・・・と感慨にふけりたかったが、私は入学式にも卒業式にも出なかった。

ポリシーがあって出なかったのかというと、下痢ピー(失礼)かなにかで出られなかったような気がする。

昨日は、可能な限り無益なことをしようと、フィリップ・グラスから始まって、スティーブ・ライヒ(これどうみてもドイツ語読みだ。アメリカ人だからライシュあたりか)までミニマルミュージックを聴きまくった。

帰宅後、今日は有益なことをと思い、ブルーレイレコーダーが一杯になっているので、ダビングをした。

その一方で、片付けなどをして、亡き妹の本棚を整理した。いつまでもそのままにしておきたいが、捨てるときは捨てないと。

まだ使える鉛筆やコンパス、定規などもばっさりと捨てた。私は使わないからである。

しかし、いくつか捨てられない物もあった。その一つがオルゴール。ネジを巻いてみたらまだ鳴る。メロディー・フェアだ。

1回巻いて鳴る時間というのは2分くらいで、短かった彼女の命を思い出す。

しかし、センチメンタルになっている暇などない。ゴミ袋5つ分の遺品が出た。

これから、勉強もしたくないし、高校へも行きたくないという生徒を教えに行く。ネトゲ廃人なんて言葉があるらしいが、彼女は段々それに近づいてきた。

だが、受験勉強の意義を教えろと言われると、実は、私にも説明できないのだ。


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