日露開戦秘話~明治男はかっこいい
2013年4月11日 日常 コメント (3)私は草書体も読めなければ候(そうろう)文も書けない。テキストにしていただくと、何とか理解はできる。
そこで、桂太郎と山県有朋の日露開戦をめぐる書簡について書きたいと思う。
桂太郎と言えば日露戦争を導いた戦争宰相として理解されているし、日露開戦は、不可避で確信に満ちたもののように描かれるが、この書簡を読む限り誤りである。
1904年12月21日(日露開戦の約2ヶ月前である)に桂は元老の山形に日露開戦に関する了解事項を確かめる意図で手紙をしたためている。
「第一 満州問題は外交の手段を以て成し得丈(だけ)談判を試み、結局此問題に於而(おいて)は最後の手段に迄は進行せざること。
第二 朝鮮問題に於而(おいて)は我か修正の希望を充分陳述し、彼聞かざるときは最後の手段を貫くこと」
これに対して、山形は即日返事を書いている。
「貴論之第二問題に付而(ついて)断然たる手段 則(すなわち) 戦争開始之論は、老生は承知不致様相覚候(承知いたさざるようあいおぼえそうろう)」
と、朝鮮問題に関しても日露開戦は断固認めない旨、桂に伝えている。内閣と元老の間に開戦に関する一致は見られなかったのである。
また桂も日露戦争に関しては非常にクールで、1905年9月28日付、後藤新平に宛てた手紙で次のように述べている。
「戦闘之局面は先つ好都合に運居候(はこびおりそうろう)・・・戦闘と戦争は根本より異なるものにて、仮令(たとい)戦闘の段階に於て我に利あるとするも、決して戦争の局面に差したる影響すべきものに無之候(これなくそうろう)」
結局、ロシアの国内事情もあって辛勝はしたものの、2万人以上の死者を出し、賠償金もとれなかった日露戦争を思う時、この桂の冷静さは注目に値する。
結局、彼らも最終的には無謀な日露開戦を選んだわけだが。
先ほど1人教え、これからもう1人を教えに行く。帰宅は9時頃。即、爆睡する予定。
そこで、桂太郎と山県有朋の日露開戦をめぐる書簡について書きたいと思う。
桂太郎と言えば日露戦争を導いた戦争宰相として理解されているし、日露開戦は、不可避で確信に満ちたもののように描かれるが、この書簡を読む限り誤りである。
1904年12月21日(日露開戦の約2ヶ月前である)に桂は元老の山形に日露開戦に関する了解事項を確かめる意図で手紙をしたためている。
「第一 満州問題は外交の手段を以て成し得丈(だけ)談判を試み、結局此問題に於而(おいて)は最後の手段に迄は進行せざること。
第二 朝鮮問題に於而(おいて)は我か修正の希望を充分陳述し、彼聞かざるときは最後の手段を貫くこと」
これに対して、山形は即日返事を書いている。
「貴論之第二問題に付而(ついて)断然たる手段 則(すなわち) 戦争開始之論は、老生は承知不致様相覚候(承知いたさざるようあいおぼえそうろう)」
と、朝鮮問題に関しても日露開戦は断固認めない旨、桂に伝えている。内閣と元老の間に開戦に関する一致は見られなかったのである。
また桂も日露戦争に関しては非常にクールで、1905年9月28日付、後藤新平に宛てた手紙で次のように述べている。
「戦闘之局面は先つ好都合に運居候(はこびおりそうろう)・・・戦闘と戦争は根本より異なるものにて、仮令(たとい)戦闘の段階に於て我に利あるとするも、決して戦争の局面に差したる影響すべきものに無之候(これなくそうろう)」
結局、ロシアの国内事情もあって辛勝はしたものの、2万人以上の死者を出し、賠償金もとれなかった日露戦争を思う時、この桂の冷静さは注目に値する。
結局、彼らも最終的には無謀な日露開戦を選んだわけだが。
先ほど1人教え、これからもう1人を教えに行く。帰宅は9時頃。即、爆睡する予定。
コメント
きちんとフォロ-したことがないので、単なる印象批評ですが。
私も、日清戦争はイージーな戦い、日露戦争は計算ずくの戦争、第二次世界大戦(15年戦争)については天皇制ファシズムの狂った戦いなどと漠然としたイメージを持っているだけです。一知半解ですね。次回の日記で日露戦争をもう少し詳しく追求してみたいと思います。
私も、日清戦争はイージーな戦い、日露戦争は計算ずくの戦争、第二次世界大戦(15年戦争)については天皇制ファシズムの狂った戦いなどと漠然としたイメージを持っているだけです。一知半解ですね。次回の日記で日露戦争をもう少し詳しく追求してみたいと思います。