昨日書きたかったのは、どの哲学も不完全なのであり、それは、その作られ方にある、考えられ方、発想をする環境にあるということなんです。

その看護学校受験生は、360度どこから見ても「真」であることを書かねばならないと思い込んでいる。

例えば、「ホスピスについてどう思うか」という出題があれば、ホスピスとは何か、終末医療とは何か、WHOはどう定義しているか、そして、相手が末期癌の患者だと、どう接するのが正しいのか、誰が読んでも納得する「答」があると信じ込んでいる。

一生懸命、そういう「答」を探すうちに、試験時間は終わってしまう。介護士だった自分にとって終末医療はどう映るのかを書くのでは駄目だと考えてしまう。

それ以前に、ホスピスや終末医療はおろか、介護士の仕事というものに関して真剣に考えたことがない。

ルーティーンをどうやり過ごすか、ミスをしないためにはどうすればよいかなどいうことに気をとられ、そんな本質的なことを考える暇がなかった。

また、一つの問題には一つの答があるという、この国の教育が彼女に大きな影響を及ぼしているように思える。

私は哲学の門外漢だが、「真理は一つ」という「強い」哲学が西洋哲学の一つの特徴であるように思える。

正しい方法で考え詰めれば、一つの「真」にたどり着くという周りの先生方の圧力の中で、私も、また、慎ましやかな研究をしていたのだと思う。

怖ろしいことだ。私は、哲学というのは、もっと人間を自由にするものだと思う。新しい思想の創造を触発するのが哲学だと思う。

で、どうしてこんなことを考えたかというと、無論、看護学校の受験生が小論文を書けないという卑近な問題が理由の第一だが、同時に、ある雑誌でとても興味深い記事を読んだからだ。

それは、T大学の哲学の教官が中心になって、自然と文化施設に恵まれた瀬戸内の島に高校生と講師を集め、「哲学」合宿を企画したというものだ。

その目的は、何かを教えることではなく、ただ純粋に考えるということだったという。講師の話に統一したテーマはない。島には立派な美術館がある。

最終日、彼らが「哲学」したことを自由に「表現」して下さいと紙が渡される。

高校生の態度は二つに分かれた。即、「芸術と美術」とテーマを決め、章立てまで考えて書き進める者が一方にいる。

「涙なき沈黙」というタイトルで「僕は徹底的に言葉を憎む。そしてなおかつ愛している」と書き進める者。

一方で、いつもは優等生と目される高校生が「書けない」ということに気付き、涙ながらに訴える。

「光を求めていたモネは、何故、光ではなく睡蓮を描いたのか?」という難問に、さっと手を挙げ「愛する人の顔を正面からでなく、横から見たいのと同じです」などと、一見、模範的な解答を述べるような生徒である。

その彼女が「私、これまで考えていると思ったけれど、何もちゃんと考えていなかった。全部、嘘だったと分かってしまいました」と告白する。

そして、書けないことについて、彼女は次のように書いた。

「私は人間の世界にとらわれていて、人間の目でしか世界が見えない。私のとなりに柱がある。ひどくまっすぐなんだなあ。私はまっすぐのとなりに居ると人間であることを忘れてしまう」

大学の哲学教官である著者は、「まっすぐな柱。ここに全てがある。彼女は立派に哲学していた!」と感激する。

後日、彼女は「この合宿で、私は初めて私に会いました」とメールを送ってきた、という一文でこの記事は締めくくられる。めでたしめでたしである。

看護学校の受験生は、ネットで過去に出た小論文のテーマを検索し、実際にそのテーマで論文を書こうとする。

1日中、原稿用紙の前に座り、結局、1行も書けない。それを延々と何日も続け、看護学校の入試には次々と失敗する。

仕事もせずに、ただ一つのことを考えるという環境は、彼女にとって初めて与えられたものであろう。

「勇気」について、「家族」について、と大きなテーマが多い。これらを考えることは立派な哲学だ。

私は、小論文は書けなくても、考えて欲しいと思う。これで、彼女が、受験に失敗したとしても(これは私のキャリアにとっては大きなダメージである)、無駄にはならないだろう。

さて、昨日の日記に戻るが、誰の哲学も、時代背景やその哲学者の置かれた環境によって多くの限界を抱えている。真理は一つではない。

21世紀の今、世界中の人々が哲学について語れば、収拾のつかないことになるだろう。これは、どの学問分野においても言えることだ。真理は一つではない。

また、哲学を生業としている者のみが哲学について語る資格を持っているというのも嘘であり、哲学は考える全ての人に開かれている。真理は一つではない。

歴史に残る哲学と、泡のように消える哲学がある。どちらも哲学である。真理は一つではない。

そう私は考えて、2年後くらいに道教について学びたいと思っている。一人の生活者として。

終わり。

今日は2人教える。





コメント

ミハーハハ
2013年12月12日11:09

自分とひとりで向き合うことが第一歩ですね。いつもいつもつながっていちゃだめ。孤独は大事な大事な時間です。若者にそう伝えたいです。

吾朗
吾朗
2013年12月12日11:17

昨日は時間切れだった記事に余計なコメントをしてしまい失礼しました。
「正解は一つ」という圧力は、「正解以外のことを述べるとはねのけられる」という強い恐怖感から、自分で考えたことを言えなくしてしまうのですね。
自分で考えたことを一つ一つ言葉にすれば、それを相手が正面から聞いてくれる(同意するかしないかは別として)という、当たり前のようでいて得がたい安心感があって初めて、自分の考えを言葉にして言えるし書けるのかなと思いました。
私もまた、その受験生がlisterさんに見守られているのと同じように、私の考えたことを正面から聞いてくれる人がいるのだと思い出しました。ありがとうございます。

かわず
2013年12月12日11:20

真理は一つではない、というのはその通りだと思います。
ただ、たとえば小論文などでは、「これが真理である」と結論を出している小論文の方が、結論を出していない小論文よりも評価が高くなっている気がします。これもlisterさんが言及されている西洋哲学の影響の一つなのかもしれませんが。
真理は一つではないならば、小論文でも一つの結論を出さなくても良いように思います。

hana
2013年12月13日4:13

listerさん^^

日経新聞の日曜版に「哲おじさんと学くん」という哲学コラムがあります。連載しているのは永井均さんという日大教授です。毎週、読むのですが読めば読むほど私の頭では何が何だか分からなくなって、ほぉ~これが哲学なのか!?と読みながら頭がぐるぐるしますww

その方が「哲学の効用は?」と訊かれて「役立つとすれば、哲学的なことを考えると、小さなことがどうでもよくなる。一つの考えに個着するのはまずくて、凝り固まるほどのことではないと考えられるようになる。コツを一つ挙げれば、自分の意見に反対することです。他人の意見に反対する方は難しくて、反論が的外れだったり誤解されたりしやすい。自分の意見は自分でよくわかっているから欠陥を暴きやすく、反論しやすい」と答えてられました。

やっとこの辺でなるほど!と少しだけわかったつもりになります 笑
相変わらずの受け売りですがww


>後日、彼女は「この合宿で、私は初めて私に会いました」とメールを送ってきた、……

わかるな~。結局は自分で自分を問い続けること、そして尚かつ自分に反論し続ける作業なのかな、と。←永井教授の影響ww

でも、これで小論文の助けにはならないですね。

hana
2013年12月13日4:15

listerさん^^

ひょっとしたら日経のこのコラムをお読みになっているかも知れませんね。
もし、そうだったら余計なお世話でした。
ごめんなさい!

lister
2013年12月13日9:55

☆ミハーハハさん

そこなんですよね。ラインで繋がっていなければ不安なんです、今の子は。私の生徒もようやく独りで自分に向かって問いかける姿勢を身につけたようです。少しずつ顔つきまで変わってきました。

lister
2013年12月13日10:05

☆ゴロぉさん

とんでもありません。私こそ、ゴロぉさんのご指摘で、生徒の苦悩について理解を深められたと思います。彼女は、きっと「正解」でなければ受け入れられないという恐怖心に戦いているのだと思います。しかし、小論文を審査する人は、出題テーマの全てについて理解することはできないという受験生の苦しさをも理解してくれるのではないかと期待しているのです。私のような素人の野暮ったい日記を真摯に受け止めていただいたゴロぉさんに感謝です。

lister
2013年12月13日10:15

☆かわずさん

ええ、その通りです。本屋やアマゾンは、小論文の書き方というハウツー本で溢れており、ごもっともな出題テーマにごもっともな解答を書かねばならないと喧伝しています。しかし、同じテーマの問題が出て、その種の参考書と同じ答を書いた人が満点を取ったという証拠はどこにもないのです。面接の受け答えの参考書もあって、正しい答え方があるのだと生徒を脅迫します。センター試験のようなマークシート学科試験では分からない能力を発見するために小論文や面接があるのに、受験産業というのは困ったものです。私もその一部ですが。

lister
2013年12月13日10:53

☆hanaさん

いえいえ、私は日経を読みませんので、永井均さんのお話は新鮮でした。ただ、私は、永井均さんと言えば、川上未映子さんを思い出します。彼女は哲学フリークで、永井均さんを「師匠」と呼び、永井さんの講義も聴講していた(いる)はずです。とは言っても、川上さんの作品は『乳と卵』しか読んでいません。というのは、川上さんと永井さんの対談「哲学とわたくし ー ことばが奇跡を起こす瞬間とは」(『文学界』??号掲載)を読んでから他の作品を読もうと考えているからです。

そして、その前にW.シューバルトの『ドストエフスキーとニーチェ』、及び、ドストエフスキーに触れているニーチェの書簡を全て読み漁りたいと考えたりして、哲学と文学の接点に興味津々なのです。

なんてことを考えていると、今の生活を考えれば、このテーマに没頭できるのは何年も先ということになり、川上未映子さんの作品を読むのもかなり先になってしまいますね。

脱線しましたが、小さなことにこだわらなくなる、自分の意見に反論するというのは面白いですね。私は哲学には効用などなくてもよいと考えるほど、考えるということの重要性を痛感しています。自分自身、考えないですから、日常。

そして「私は初めて私に会いました」ですが、私も、その気持ちが分かります。哲学する人が若ければ若いほど、こういう純粋無垢な言葉には胸打たれます。その同じ彼女の「まっすぐな柱」にも感動しますね。人間の身体、心理、自然、何をとっても「まっすぐ」なものなんてありません、そういわれれば。正確にまっすぐなもの、直線のようなものがあるとすれば数学とか物理学と言った思弁の中だけですからね。私も高校生の時に、こういう合宿に参加したかったです。

そして、最後に、生徒の小論文に関しては、あるテーマに関する対話(相手が私のようなものであれ)が有効なのかなと傲慢なことを考えたりします。

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