語り始めた犯罪者(2)
2014年10月14日 日常 コメント (1)台風の影響でひどい雨。しかも歯痛が始まり、数ヶ月ぶりに歯医者へ行かねばならない。
19世紀の歯科医療がどのようなものだったか知らないが、ドストエフスキーはしばしば耐え難い歯痛について書いている。
不思議なことに、彼の歯痛はいつも時間がたてば止る。虫歯が腐ったか抜けたのかどちらかだろう。いや、モルヒネ的な麻薬を使用した可能性もある。
ところで、犯罪者の手記というのは何故公開されるのだろう。
先ず頭に浮かぶのは、赤裸々な記述に野次馬的興味をそそられるということだ。
今日、犯人の書く内容がチンプンカンプンであればあるほど注目を集めるという傾向もないではないが、クリアで意外な動機が露見していると、それにも飛びつく。
獄中の世界に対する単なる好奇心であったりもするが、今までにない「新しい」動機を犯罪者が述べていると、世間は、それが本当に「新しい」かどうかを吟味もせず火事場へ急ぐのだ。
マスコミ、ミニコミ問わず、メディアは、売れれば何でも掲載する。原稿料が安いのに購買意欲をそそる犯罪者の獄中記はうってつけもない宣伝材料だ。
第二の理由であるが、それは犯罪の起きた原因を獄中記から推定し、犯罪抑止につなげようという崇高な理念だ。
だが野次馬的関心から手記を載せるメディアは、残らず、犯罪抑止のために犯人の手記を公開しますと前書きする。
理由はともあれ、戦後だろうか、日本のメディアが犯罪者の手記を出版してきたのは確かな事実であり、ようやく日本も19世紀のヨーロッパに追いついたと考えてよいのか。
たまたま月刊誌「創」の今月号は、必ずしも犯罪抑止の観点からではないが、非常に興味深い取り組みをしているので紹介してみたい。
一つは、黒子のバスケ犯である渡邊博史が寄せた手記である。
社会格差犯罪と彼が呼ぶものは注目を集めたが、最初の意見陳述では彼自身、その動機について十分説明できる状態にはなかった。
今回で3回目の手記となるが、他人に自分の動機を語る技術も向上し、余裕まで出てきた。
まず、幼い頃から両親による虐待(愛情の欠如)を受けており、成長しても努力するということができなかった、と。
そこで成功者としての黒子のバスケの作者に嫉妬し復讐したが、死刑にはならなかったので出所後自殺する、と。
そして、威力業務妨害罪でしか立件されなかったが、あくまで、死にたかったので犯行に及んだということを何度も強調する。
上告を取り下げたので懲役刑が始まるわけだが、現在はまだ独房で各方面の古典を読書しているとのこと。雑居房でのイジメが怖いと述べる。
知性を感じさせる流麗な文体、筆運び。こうしたものが渡邊氏の手記に注目が集まるもう一つの理由だ。
彼の手記は『生ける屍の結末 ── 黒子のバスケ脅迫事件の全真相』として創出版から発売中だ。その一部は以下のアドレスで全文公開されている。
「黒子のバスケ犯」渡邊博史被告 被告人意見陳述全文
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
これに対し、秋葉原での無差別殺人犯である加藤智大被告が同じ誌面上で渡邊博史受刑囚の事件を解説し批判している。
【犯罪経験者にのみ理解可能な犯罪者心理のささやかな解説】 「秋葉原事件」加藤智大被告 http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/
論理学の講義とも読み取れる書き出しで、犯罪経験者だからこそ分かる黒子のバスケ犯の動機解説を試みる興味深い前半。
後半で、先ず、成功者への復讐なら他に取り得る手段は多かったと渡邊受刑者の犯罪を批判。
最後は、渡邊受刑囚は出獄後自殺というが、それなら死刑に値する凶悪な事件を起こせばよかったということを示唆する内容で終わる。
加藤被告は一貫して犯罪抑止がこの手記の目的であると繰り返すが、渡邊受刑囚との比較で自己の犯罪を武勇伝化しているとしか思われない。
一見難解な文章だが、そこから、加藤被告の渡邊受刑囚に対する嫉妬のようなものを読み取れないだろうか。
そもそも、加藤被告が渡邊受刑囚の手記にリアクションを起こすということそのものが、それまでの加藤被告の沈黙を考えるとあり得ないものであった。
この二人の犯罪で異なるものは、加藤被告が殺人を犯し、渡邊受刑囚が威力業務妨害に終わったという点くらいではないだろうか。
なのに注目されるのは渡邊受刑者ばかり。少なくとも「創」の誌面ではそう見えても仕方ない。
加藤被告も何冊か手記を出している。私は読んでいないのだが、難解と評する人が多い。文章のロジカルな構成をみても渡邊被告の書くものに負けてはいない。
そこに彼の意地のようなものを感じる。死刑囚は普通二度と犯罪を犯すことはできず、起訴され死刑判決を受けた犯罪が最高傑作となる。
死刑囚にとって、ある意味、人生の華だ。
渡邊氏に勝るとも劣らない知的な文章を書いているし、何より自分は無差別殺人犯なのだから格差社会犯罪というなら自分の方が上手だという凄みである。
渡邊受刑囚は加藤被告の指摘に対して何も答えようとはしない。ただ理解しがたいと述べるのみだ。
このように受刑者同士の見解をクロスオーバーさせる「創」という雑誌は非常に面白い。
ただ、彼らのような動機というものは、19世紀のフランス人犯罪者であるラスネールの回想録に既に見られるのであり、何ら新しいものとは言えない。
彼もまた、格差社会に順応できなかったのであり、そのような社会へ復讐するために殺人を犯したのだ。死にたかったから殺人を犯したのだ。
自殺ではなく殺人犯に対する死刑を求めたのは、自殺では個人的事象に終わるのであり、殺人を犯させた格差社会に断頭刑をもって臨ませることこそ彼への栄誉に相応しいという理由からであった。
渡邊受刑囚、加藤被告、ラスネールの間には相違点もあるが、むしろ共通点の多さに圧倒される。
機会があれば、またこの問題について考えてみたい。
今日は2人。
19世紀の歯科医療がどのようなものだったか知らないが、ドストエフスキーはしばしば耐え難い歯痛について書いている。
不思議なことに、彼の歯痛はいつも時間がたてば止る。虫歯が腐ったか抜けたのかどちらかだろう。いや、モルヒネ的な麻薬を使用した可能性もある。
ところで、犯罪者の手記というのは何故公開されるのだろう。
先ず頭に浮かぶのは、赤裸々な記述に野次馬的興味をそそられるということだ。
今日、犯人の書く内容がチンプンカンプンであればあるほど注目を集めるという傾向もないではないが、クリアで意外な動機が露見していると、それにも飛びつく。
獄中の世界に対する単なる好奇心であったりもするが、今までにない「新しい」動機を犯罪者が述べていると、世間は、それが本当に「新しい」かどうかを吟味もせず火事場へ急ぐのだ。
マスコミ、ミニコミ問わず、メディアは、売れれば何でも掲載する。原稿料が安いのに購買意欲をそそる犯罪者の獄中記はうってつけもない宣伝材料だ。
第二の理由であるが、それは犯罪の起きた原因を獄中記から推定し、犯罪抑止につなげようという崇高な理念だ。
だが野次馬的関心から手記を載せるメディアは、残らず、犯罪抑止のために犯人の手記を公開しますと前書きする。
理由はともあれ、戦後だろうか、日本のメディアが犯罪者の手記を出版してきたのは確かな事実であり、ようやく日本も19世紀のヨーロッパに追いついたと考えてよいのか。
たまたま月刊誌「創」の今月号は、必ずしも犯罪抑止の観点からではないが、非常に興味深い取り組みをしているので紹介してみたい。
一つは、黒子のバスケ犯である渡邊博史が寄せた手記である。
社会格差犯罪と彼が呼ぶものは注目を集めたが、最初の意見陳述では彼自身、その動機について十分説明できる状態にはなかった。
今回で3回目の手記となるが、他人に自分の動機を語る技術も向上し、余裕まで出てきた。
まず、幼い頃から両親による虐待(愛情の欠如)を受けており、成長しても努力するということができなかった、と。
そこで成功者としての黒子のバスケの作者に嫉妬し復讐したが、死刑にはならなかったので出所後自殺する、と。
そして、威力業務妨害罪でしか立件されなかったが、あくまで、死にたかったので犯行に及んだということを何度も強調する。
上告を取り下げたので懲役刑が始まるわけだが、現在はまだ独房で各方面の古典を読書しているとのこと。雑居房でのイジメが怖いと述べる。
知性を感じさせる流麗な文体、筆運び。こうしたものが渡邊氏の手記に注目が集まるもう一つの理由だ。
彼の手記は『生ける屍の結末 ── 黒子のバスケ脅迫事件の全真相』として創出版から発売中だ。その一部は以下のアドレスで全文公開されている。
「黒子のバスケ犯」渡邊博史被告 被告人意見陳述全文
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
これに対し、秋葉原での無差別殺人犯である加藤智大被告が同じ誌面上で渡邊博史受刑囚の事件を解説し批判している。
【犯罪経験者にのみ理解可能な犯罪者心理のささやかな解説】 「秋葉原事件」加藤智大被告 http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/
論理学の講義とも読み取れる書き出しで、犯罪経験者だからこそ分かる黒子のバスケ犯の動機解説を試みる興味深い前半。
後半で、先ず、成功者への復讐なら他に取り得る手段は多かったと渡邊受刑者の犯罪を批判。
最後は、渡邊受刑囚は出獄後自殺というが、それなら死刑に値する凶悪な事件を起こせばよかったということを示唆する内容で終わる。
加藤被告は一貫して犯罪抑止がこの手記の目的であると繰り返すが、渡邊受刑囚との比較で自己の犯罪を武勇伝化しているとしか思われない。
一見難解な文章だが、そこから、加藤被告の渡邊受刑囚に対する嫉妬のようなものを読み取れないだろうか。
そもそも、加藤被告が渡邊受刑囚の手記にリアクションを起こすということそのものが、それまでの加藤被告の沈黙を考えるとあり得ないものであった。
この二人の犯罪で異なるものは、加藤被告が殺人を犯し、渡邊受刑囚が威力業務妨害に終わったという点くらいではないだろうか。
なのに注目されるのは渡邊受刑者ばかり。少なくとも「創」の誌面ではそう見えても仕方ない。
加藤被告も何冊か手記を出している。私は読んでいないのだが、難解と評する人が多い。文章のロジカルな構成をみても渡邊被告の書くものに負けてはいない。
そこに彼の意地のようなものを感じる。死刑囚は普通二度と犯罪を犯すことはできず、起訴され死刑判決を受けた犯罪が最高傑作となる。
死刑囚にとって、ある意味、人生の華だ。
渡邊氏に勝るとも劣らない知的な文章を書いているし、何より自分は無差別殺人犯なのだから格差社会犯罪というなら自分の方が上手だという凄みである。
渡邊受刑囚は加藤被告の指摘に対して何も答えようとはしない。ただ理解しがたいと述べるのみだ。
このように受刑者同士の見解をクロスオーバーさせる「創」という雑誌は非常に面白い。
ただ、彼らのような動機というものは、19世紀のフランス人犯罪者であるラスネールの回想録に既に見られるのであり、何ら新しいものとは言えない。
彼もまた、格差社会に順応できなかったのであり、そのような社会へ復讐するために殺人を犯したのだ。死にたかったから殺人を犯したのだ。
自殺ではなく殺人犯に対する死刑を求めたのは、自殺では個人的事象に終わるのであり、殺人を犯させた格差社会に断頭刑をもって臨ませることこそ彼への栄誉に相応しいという理由からであった。
渡邊受刑囚、加藤被告、ラスネールの間には相違点もあるが、むしろ共通点の多さに圧倒される。
機会があれば、またこの問題について考えてみたい。
今日は2人。
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