久志芙沙子さんについて 修正
2015年4月26日 日常市会議員の選挙に行ってきた。市議会で一体何ができるのだろう?脱原発を唱えたところで市議会というのは何か実効性のある施策を打ち出すことができるのか?
限りなく否である。しかし私は脱原発と憲法9条の堅持を選挙公約として掲げる市議会議員候補に一票を入れた。
因みに広島出身で大学は東京という人だ。いわばよそ者だが、地元出身の候補には全く惹かれない。こういうことは北海道ではよく起こる。
北海道知事である高橋はるみも富山出身で大学は東京。道民は地元文化というものを当てにしていない。道産子だからからといって直ちに支持はしない。
道民は伝統や仕来りに縛られず、他府県からの移住者に寛容と言えば響きはよいが、そもそも北海道というものを信じていないのではないか。私はその一人だ。
前置きが長くなった。先日、久志芙沙子さん(1903-1986)の『滅びゆく琉球女の手記』、それに続く一連の議論を知り、沖縄にも似たような土壌があるのではないかと思った。
久志芙沙子は本名久志ツル。戸籍上の旧姓は久志芙沙子。その後、結婚により坂野姓に。
1903年首里生まれ。久志本人は1910年生まれとしていたらしいし戸籍上も1910年生まれとなっている。夫より年上であることを嫌い、このように称していたのではないかと思われる。
祖父の時代は名門の誉れ高い一族であったが廃藩置県で没落したと述べていた。しかし久志一族のこのようなバックグラウンドは史実によって裏付けることができず疑わしい。
天妃幼稚園で久志と同輩であった魚住(旧姓永田)千代の証言によれば、幼稚園時代は久茂地の潟原で母と二人暮らしをしていたという。
同女史によれば、その後、父が経営していた砂糖会社の西新町の黒糖倉庫に移り住み貧しい暮らしをしていたが、引越しを繰り返し学校を転々としたそうだ。
窮乏の程度は知るべくもないが、ある程度の資産がなければ進学することは難しい県立第一高等女学校で学んだ。
在学中から「女学世界」などへ短歌を投稿し始めて入選を重ねる。
ペンネームは鈴木ユミ(優美)、久志つる、新良城繁子、ふさ子などを使い分けていた。
1920年、県立第一高等女学校を卒業し、読谷で小学校の教鞭をとった後、上京し、最初の結婚をして2人の子供の母となり、夫の病故に貧しい生活を送る。
賞金稼ぎの目的で(本人談)、1931年、「婦人公論」に投稿した実話が入選し同誌5月号で「年上の女・年下の男『日記の抜書』」として掲載される。翌1932年、「婦人公論」に「片隅の悲哀」という実話ものの作品を原稿用紙40~50枚の完成稿として応募する。
この時のペンネームは久志富佐子となっている。
このうち原稿用紙16枚分が「滅びゆく琉球女の手記」というセンセーショナルなものに改題され「婦人公論」に掲載。書店や新聞の広告、中吊り広告などで派手に宣伝されたらしい。
内容は、東京で経済的な成功を収めた沖縄出身の伯父が長い沈黙の後、赤貧洗うがごとき沖縄の実家を訪れ、あまりの窮状を恥じて、そそくさと東京へ戻るというものだ。
この伯父は、沖縄出身であることを隠し通し、本籍も他の県に移している。
続きは明日書きます。
限りなく否である。しかし私は脱原発と憲法9条の堅持を選挙公約として掲げる市議会議員候補に一票を入れた。
因みに広島出身で大学は東京という人だ。いわばよそ者だが、地元出身の候補には全く惹かれない。こういうことは北海道ではよく起こる。
北海道知事である高橋はるみも富山出身で大学は東京。道民は地元文化というものを当てにしていない。道産子だからからといって直ちに支持はしない。
道民は伝統や仕来りに縛られず、他府県からの移住者に寛容と言えば響きはよいが、そもそも北海道というものを信じていないのではないか。私はその一人だ。
前置きが長くなった。先日、久志芙沙子さん(1903-1986)の『滅びゆく琉球女の手記』、それに続く一連の議論を知り、沖縄にも似たような土壌があるのではないかと思った。
久志芙沙子は本名久志ツル。戸籍上の旧姓は久志芙沙子。その後、結婚により坂野姓に。
1903年首里生まれ。久志本人は1910年生まれとしていたらしいし戸籍上も1910年生まれとなっている。夫より年上であることを嫌い、このように称していたのではないかと思われる。
祖父の時代は名門の誉れ高い一族であったが廃藩置県で没落したと述べていた。しかし久志一族のこのようなバックグラウンドは史実によって裏付けることができず疑わしい。
天妃幼稚園で久志と同輩であった魚住(旧姓永田)千代の証言によれば、幼稚園時代は久茂地の潟原で母と二人暮らしをしていたという。
同女史によれば、その後、父が経営していた砂糖会社の西新町の黒糖倉庫に移り住み貧しい暮らしをしていたが、引越しを繰り返し学校を転々としたそうだ。
窮乏の程度は知るべくもないが、ある程度の資産がなければ進学することは難しい県立第一高等女学校で学んだ。
在学中から「女学世界」などへ短歌を投稿し始めて入選を重ねる。
ペンネームは鈴木ユミ(優美)、久志つる、新良城繁子、ふさ子などを使い分けていた。
1920年、県立第一高等女学校を卒業し、読谷で小学校の教鞭をとった後、上京し、最初の結婚をして2人の子供の母となり、夫の病故に貧しい生活を送る。
賞金稼ぎの目的で(本人談)、1931年、「婦人公論」に投稿した実話が入選し同誌5月号で「年上の女・年下の男『日記の抜書』」として掲載される。翌1932年、「婦人公論」に「片隅の悲哀」という実話ものの作品を原稿用紙40~50枚の完成稿として応募する。
この時のペンネームは久志富佐子となっている。
このうち原稿用紙16枚分が「滅びゆく琉球女の手記」というセンセーショナルなものに改題され「婦人公論」に掲載。書店や新聞の広告、中吊り広告などで派手に宣伝されたらしい。
内容は、東京で経済的な成功を収めた沖縄出身の伯父が長い沈黙の後、赤貧洗うがごとき沖縄の実家を訪れ、あまりの窮状を恥じて、そそくさと東京へ戻るというものだ。
この伯父は、沖縄出身であることを隠し通し、本籍も他の県に移している。
続きは明日書きます。
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