「滅びゆく琉球女の手記」のアウトラインをもう少し続けたいと思います。

「ソテツ地獄」という底なしの不況が沖縄にはありました。

第一次世界大戦が終わった1918年間もなく後から関東大震災(1923年)を経て世界恐慌が起きた1929年以降の昭和恐慌は取り分け産業基盤の弱い沖縄を直撃し、沖縄はソテツ地獄と形容される不況に見舞われた。更には重い国税が追い討ちをかけた。

このソテツ地獄の時期、当時人口の7割が住む沖縄農村部では、米はもちろん、甘藷すら口にすることができず、毒性のあるソテツ*まで食べて飢えをしのいだ。

特に第一次世界大戦中、戦場となったヨーロッパへ盛んに砂糖を輸出した沖縄では砂糖成金が多く生まれた。

しかし戦争が終わると途端に沖縄産の砂糖の需要は落ち込み、砂糖業者だった久志の父親のように破綻する者が多く出た。

芙沙子はソテツ地獄を身をもって経験したはずである。「滅びゆく琉球女の手記」で描かれる極貧の暮らしは絵空事ではない。

「滅びゆく琉球女の手記」では、語り手「妾(わたし、と読ませる)」の実家で幼い子供が餓死する様子が描かれる。また母親の食欲が旺盛なことに悩む家族の描写は辛酸を極める。

しかし経済的困難だけが問題ではない。母である老婆の手の甲に刻印された「ハジチ」(刺青)という沖縄の風習にも触れる。

明治以降、この刺青は法によって禁じられ、ハジチのある女性は沖縄に隠れるようにして留まることを余儀なくされた。

ハジチは沖縄独自の文化一般が「近代」日本によって否定され続けたことを象徴する。

こうした一切合財が、東京で成功した伯父が沖縄出身であることを隠し、実家を恥じることにつながるのだ。

この伯父はお義理として月々実家へ送金するが、やはり沖縄との接点を隠すかのように、東京在住の「わたし」の手を通して届けさせるのである。

見送りも拒んでそそくさと伯父が東京へ帰った後、任地へ戻る「わたし」は夕暮の風景と「滅び行く孤島」(沖縄のこと)をシンクロさせる。

そして馬車の御者が歌う沖縄の民謡の「ナンセンスな歌詞とやけくそなジャズにも似た節」は「被抑圧民族」の「うっ積した感情」が生み出したのだろうと結ぶ。

原稿用紙16枚程度(残り20~30枚の完成稿を目にすることはできない)の「実話」は「婦人公論」の1932年6月号を飾った。

これは、先ず、実在の伯父の怒りを呼んだが、それに留まるものではなかった。

沖縄県学生会前会長と会長が久志宅を訪れ、叱責すると同時に「婦人公論」誌上で謝罪するよう要求したのである。

結局、婦人公論社が折れ、久志は「婦人公論」同年7月号に「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」を発表し、久志の連載は中止となった。

これが、いわゆる「滅びゆく琉球女の手記」の筆禍事件と呼ばれるものであり、事実上、久志芙紗子に断筆を迫るものであった。

明日は「釈明文」について書きたい。

*ソテツは毒抜きに大変面倒な作業が必要であり、昭和初期まで、飢えをしのぐ「救荒食物」であった。





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