「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」は「婦人公論」1932年7月号に掲載された。

「滅びゆく琉球女の手記」に対する沖縄県学生会からの抗議文は残っていないし、あるいは口頭だけのものだったかも知れない。

したがって、どのような抗議だったのかは「釈明文」の内容から推測するしかない。以下、主な点だけを箇条書きにしてみる。

1.故郷のことを洗いざらい悪し様に書かれると迷惑である。
2.沖縄県人が出世すると全て「伯父」のようになると思われるのは心外だ。
3.沖縄県人を「民族」と表現すると、アイヌ人や朝鮮人と同一視される。
4.沖縄県人の就職難や結婚問題にも悪影響を与える。

これは私なりの推測・要約であって、誤解あるいは欠落があるかも知れないが、抗議文というものが存在しないのであるからお許しいただきたい。

久志の釈明文は、これらの抗議に平身低頭の侘びを述べるどころか、全てのポイントについて丁々発止の反撃を加える。

婦人公論編集部が「滅びゆく琉球女の手記」に遺憾の意を表し、沖縄県人会と学生会の申し出に従って掲載を中止することによって幕引きをはかったのとは好対照を成す。

久志の反論は、原文に忠実であることを期しまとめると以下のようになる。

1.嘘八百を並べたわけではないし、沖縄県人が出世すると全て「伯父」のようになると書いたわけでもない。

2.学生会は、アイヌや朝鮮の人々に人種的序列をつけて沖縄県人をその上位に置こうとする試みを行なっているが、時代錯誤であり、沖縄県人と彼らは同じ東洋人であり、沖縄人も紛うことなく日本人である。

3.外に対しては沖縄の風俗習慣をカムフラージュし、中に向かっては、その改良を叫ぶという卑屈な態度が就職難や結婚問題を生じさせている。

4.作品では、自分自身もその一員である沖縄県人を侮蔑したわけではなく、文化に毒されない琉球の人間がどんなに純情であるかを書いたまでである。

5.社会的地位を獲得している学生会の人には妾(わたし)の明け透けな文がそんなにも強く響いたとは恐れ入るし、妾(わたし)のような無教養な女が一人前の口を利き心外なのだろうが、エリート達のご都合に我々下々の者まで巻き込まれては浮かばれない。

非常に稚拙な要約であり、是非、久志の釈明文そのものをお読みいただきたい。

このような反論を展開できたのは、自身と琉球王族との縁(ゆかり)に関する強い確信、そして、当時、沖縄の女性の中では最高水準の教育を沖縄県立第一高等女学校で授けられたという高いプライドがあったからであろう。

「釈明文」については「あれは、学生会の方たちの腰抜けぶりにハラがたってきて、一気に書いたものです」と述懐しているが、実にお見事である。

この釈明文は沖縄のインテリ層の間で非常に高く評価され、現在でも立派に通用する内容であるなどと讃えられる。

しかしその後、久志芙沙子は全く忘れ去られた存在であった。筆禍事件以降、久志は筆を折り、一男一女をもうけた病弱の夫と離婚した。

自殺を考えるほどの赤貧の中で、とある宗教に帰依し「救われた」と述べている。

前後関係は不明であるが、愛知県出身の医師と再婚し名古屋へ移って二男一女(推定)をもうける。

最終的に三男二女の母親となり、11人の孫に恵まれる。次男を水難で失うという悲劇が襲うものの「奥様」と呼ばれる平凡な日々を送った。

続きはまた明日書きます。 











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