香山リカ vs 小林よしのり アイヌ民族論争 両氏、何言ってんの? 途中まで
2015年6月19日 日常 コメント (6)「民族」という言葉をめぐる不毛の論争だ。
そして、何より、アイヌ「民族」は「先住民族」だということを忘れ、誤解している。
先住民族は英語ではindigenous people(s)であり、(先住民族団体はpeopleという単数形ではなく独自の文化を持った集団の総称としてpeoplesと複数形にすることを求めている)、peopleは" all the persons who live in a particular place or belong to a particular country, race, etc."といったくらいの意味しか持たない。精々が「~人」程度。
一方、民族は通常の英語で"nation"となる。意味は"a country considered as a group of people with the same language, culture and history, who live in a particular area under one government." つまり、一つの政府に統治された言語、文化、歴史を共有する人々の集団ということになる。
いずれもオックスフォード辞典の定義なので、文化人類学者や国際政治の専門家からは様々な批判が出そうではあるが、peopleは極めて同質性が強い人々の集団で場合によっては国を作る、nationは、現に一つの国家を形成している集団くらいの違いがある。
もともと日本語の中にこれらの概念の違いを適切に表すことのできる単語がないので、英語に頼ることになる。英語は西洋流の考え方を表すのに便利だ。
コインの表裏として、このテーマを日本語で議論するととんでもない誤解を招いたり、空疎な言葉遊びになってしまう。
小林よしのりは、アイヌ民族は「民族」ではないと主張し、その根拠として、混血が進み純粋なアイヌ人はいない、アイヌ語を使う人はいない、アイヌ人としての出自が曖昧という3点を挙げる。
それをそのまま真に受けているのが香山リカだ。エスニシティーという言葉に近いことを考えているが、うまく説明できていない。
そして、何より、アイヌ「民族」は「先住民族」だということを忘れ、誤解している。
先住民族は英語ではindigenous people(s)であり、(先住民族団体はpeopleという単数形ではなく独自の文化を持った集団の総称としてpeoplesと複数形にすることを求めている)、peopleは" all the persons who live in a particular place or belong to a particular country, race, etc."といったくらいの意味しか持たない。精々が「~人」程度。
一方、民族は通常の英語で"nation"となる。意味は"a country considered as a group of people with the same language, culture and history, who live in a particular area under one government." つまり、一つの政府に統治された言語、文化、歴史を共有する人々の集団ということになる。
いずれもオックスフォード辞典の定義なので、文化人類学者や国際政治の専門家からは様々な批判が出そうではあるが、peopleは極めて同質性が強い人々の集団で場合によっては国を作る、nationは、現に一つの国家を形成している集団くらいの違いがある。
もともと日本語の中にこれらの概念の違いを適切に表すことのできる単語がないので、英語に頼ることになる。英語は西洋流の考え方を表すのに便利だ。
コインの表裏として、このテーマを日本語で議論するととんでもない誤解を招いたり、空疎な言葉遊びになってしまう。
小林よしのりは、アイヌ民族は「民族」ではないと主張し、その根拠として、混血が進み純粋なアイヌ人はいない、アイヌ語を使う人はいない、アイヌ人としての出自が曖昧という3点を挙げる。
それをそのまま真に受けているのが香山リカだ。エスニシティーという言葉に近いことを考えているが、うまく説明できていない。
コメント
フランス第三共和制の開始時まで遡れば、両者は鋭く対立しこそすれ、決して軌を一にすることは、ありえません。
問題ははっきりしています。
①我が国民のほとんどは、上記2者を区別していない。出来ていない
②我が国民が「ナショナリズム」と考えているものは、その実単なるエスノセントリズムである
この誤解に、ことばの低劣な意味における左右の政治性が貫入して、listerさんが仰る「何言ってんの?」という水準の議論擬きが生まれるわけであります。
「右」は、本来の意味における右=保守の思想のなんたるかについて理解していない。彼らはE・バークやオークショットの思想をからきし理解していません。そもそも理解する気もないのでしょう。
一方「左」は、「ヒューマニズム」「世界市民主義」といった政治的立場に立つことと、真に人間の実存に寄り添うこととのあいだの乖離に無自覚であるか、ないしは分かっていてそれを無視している。
一個の保守主義者として忸怩たる思いを禁じ得ませんが、最近は「仕方のないことだ」と諦めている次第です。
日記が途中のままですが、久志芙沙子さんのことと共にアイヌ人、琉球人についてもこれから考えていきたいと思っています。お付き合いのほどを。
言葉の問題についてはその通りです。「民族」という言葉の外延は果てしなく広く、意味毎に違う用語を使わねば香山vs小林の不毛な議論になります。
今後、では、どういう概念で「アイヌ」をとらえ、どう呼ぶべきなのか私なりの考えを述べたいと思いますが、なかなか時間がそれを許しません。
さて、私は、右vs左という対立軸が今日有効なのか大いに疑問を持っています。社会主義・共産主義に傾倒する左翼と国粋主義の右翼がいたころには非常に分かりやすかったのですが、今、そういう連中がどれだけいますか?
保守主義が右でリベラルが左と考えても、仰る通り、保守主義者を標榜している御仁が本当に保守主義を理解しているのかと問われれば答は否です。
私は本当の保守主義者を尊敬しますし、彼らが世界をどう考えているのか是非知りたいのです。
またリベラリストを標榜している方々にリベラリズムを理解している人はほとんどいません。戦後焼け跡派がいた時代は誰でもリベラリストになりえましたが、今日、リベラルの旗を振るならそれなりの覚悟と研鑽が必要なのです。
小林よしのりというのは保守主義者でも何でもなく、タブーを掻き乱すことによって本が売れればそれでよいというビジネスマンです。
香山リカは、少なくともアイヌ論争においては、リベラルとは無関係であり、ネトうよに絶大な影響力を誇る小林よしのりにアイヌに対するヘイトを止めさせて欲しいと、全く筋違いなお願いをする、精々が「人情派」です。
二人とも「アイヌ」に関する理解のレベルが低く、この論争を引っ張っていくだけの力量がありません。
ミニコミ界の24時間テレビ、月刊『創』の3時間対談とやらを読みましたが、「アイヌ」の抱える問題の解決にはおよそ寄与するものではありません。月刊SPA!も同じですね。
そもそも小林かつのりは「民族」について考えたいとも思っていませんし、あの方もそのように高遠な思弁をやっていては商売にならないのです。
香山リカもその辺に気付いて欲しいです。このテーマに関する私の日記は続きます。商売でやっているわけではありませんからね。
彼らにとって社会科学は、社会をより良きものにするための処方箋ではありません。それは破滅を避けるための政治的知恵です。
復古主義者と保守主義者をみわける極めて簡明な質問をひとつ、あげておきます。
「女性天皇は是か非か」
むろん復古主義者は「非」と答えます。
一方、保守主義者は「分からない」もしくは「それは今回答すべき問いではない」と答えます。
保守主義者にとって、社会を成立せしめている諸力は分明でない、すなわちこの世界における皇室の位相は明らかでないわけであります。
それゆえ理の必然として、彼らは先送り可能な政治的課題について判断を下すことを避けます。
なるほど、社会に対するその抑制的な態度が「保守」ということなのですね。
大変興味深く読ませていただきました。
この面子見て何も思わないとしたらそうとう馬鹿
アイヌを利権の手段にしてるとしかいいようがない。
この面子、確かにアイヌ(民族)問題を何も知らない人たちですね。
私はアイヌが民族であろうとなかろうとどうでもよいのです。他の先住民がみなそうであるように、先住民の血を引く人々の置かれたどうしようもないディザスター、(人種)差別、文化継承の困難さが問題だと思っています。
アイヌ利権など天下りの利権に比べれば些細なものです。そんなもの問題ではありません。どの程度ご存知かは知りませんが。