アイヌ関連の法律に「民族」という言葉がつくので、アイヌは一つの国家を作れるくらい和人から遠く離れ、独自の文化、とりわけアイヌ独自の言語を持ち、人種的にも古モンゴロイドの特徴を有していなければならない、というのが小林よしのりの主張であると思われる。

今日、『ゴーマニズム宣言NEO2 日本のタブー』、『わしズム 日本国民としてのアイヌ』がアマゾンマーケットプレイスから届いたので、小林氏の言い分について詳しく調べようと思うが、『創』3月号の特集で分かる範囲のことを述べたい。

アイヌ関連法案に冠される「民族」という言葉は"nation"で表されるものではなく、"people(s)"の日本語訳である。"people(s)"の指すところは、今日的にはエスニックグループ(ethnic group)と呼ばれるものである。

エスニック集団は、一つの国家の中、あるいはいくつもの国にまたがって存在する文化的な集団であり、集団を成すに当たっては、構成員の主観が大きな理由となる。そして多くの国でエスニック集団には様々な独特の権利が認められている。また、どのエスニックグループの構成員も、望む望まざるを問わず、何らかの国籍を持っている。

アイヌも日本人、それは国籍上、当たり前のことで、特に騒ぎ立てるまでもないであろう。

エスニック集団において、生物学的特徴、すなわち人種がその集団の拠って立つファクターである場合(アメリカの黒人など)もあるが、人種とは無関係なエスニック集団もある。ユダヤ人は様々な人種から成り、言語も多種多様である。

従って、アイヌが古モンゴロイドの特徴をほとんど失っていてもエスニックグループであると主張できる。

小林氏の質問に答えよう。ゴーマンかましてもよかですか!!99%が和人と同じ外見でも何ら問題なくその人はエスニックグループとしてのアイヌであると主張できる。

逆に、小林氏に質問したい。1%でもアイヌの血が混じっている人が純粋な和人と主張できるであろうか?それは社会的に考える問題である。

更にアイヌの場合、先住民、すなわち、支配民族が鉄器を使っていた時代にまだ石器時代の生活を送っていた民である。

日本であれば、刀を通り越して鉄砲を使う和人の前にアイヌは鉄製の武器を持たなかった。

簡単に和人か先住民(日本の場合、祖先に旧土人法が適用された場合は「旧土人」とその戸籍に書かれている)の区別はついた。戸籍調査が及ばないアイヌもいただろうから周辺の人から聞き取りをすることもあるだろう。

従って、アイヌの出自というものはいい加減ではない。これが小林氏の次の質問に対する答である。

また、簡単に離脱できる民族などいるのか?との疑問だが、アイヌも含めた日本人が日本民族(大和民族?)であるとしよう。日本人は憲法22条で日本国籍を離脱することが認められている。

簡単かどうかは知らないが、日本人をやめることができるのだ。国籍離脱ができるからといって、小林氏が、日本民族など存在しないとは言いそうにない。

だから、特に差別を怖れて、アイヌであることを否定し和人であると主張する人がいるからといって、これが即ちアイヌの存在を否定することにはならない。

また、養子縁組などをした場合に和人がアイヌを名乗ることがあると小林氏は指摘するが、北海道におけるアイヌ差別の厳しさを考える時、仮にどのような金銭的特権を与えられても、アイヌであることを選ぶのがどれほど難しいことか考えるべきである。

和人との混血が進んだ現在において、アイヌか否かを決めるのは身体的特徴(人種)ではなく、それは脳で決めることなのだ。

小林氏が北海道(関東圏にも多くのアイヌがいるが)でどれだけのリサーチをしたか知らないが、アイヌ語を話せる人間はいるし、アイヌ語の保存のための活動が間違いなくある。

但し、アイヌ語が意図的に残そうとする努力がなければ死語になるというのは本当だ。

北海道のラジオ局はアイヌ語番組を放送しているし、アイヌ語の教育を目的とした書籍やビデオ(DVDになっているかどうかは知らない)も枚挙にい暇がない。

もっとも、アイヌ語には北海道各地で方言があるが、お互い、高度な親和性を持つ。一つの言語と考えても大きな問題はないであろう。まさか関西弁が日本語でないとは小林氏も言わないであろう。

イスラエル建国の時、古いヘブライ語を現代でも使えるように大改造した話は有名であるが、アイヌ語にも古ヘブライ語と同じ問題があり、例えば、スマホをどのようにアイヌ語で表現するかなど非常に難しい。

一事が万事、現代において、アイヌ語のカジュアルな会話をすることはほぼ不可能である。単にスマホと言ってしまえば簡単なのだが、それではアイヌ語ではないと小林氏は叩くのであろう。

アイヌ語が積極的に継承活動がなされてこなかった先住民の言語であるということを理解しなければならない。

日本人が英語に限らず外国語を学ぶことにより日本語のことをよりよく理解するのと同じように、アイヌ語学習も日本語を学ぶ上で大きな貢献をするはずだ。

また言語が思考を支配するというのは言い過ぎではなく、アイヌ語でしか表現できないアイディアというものがあると私のアイヌの友人は語っていた。

今日はここまで。







コメント

先生様
2015年6月24日0:51

>保守主義
社会に対する、というよりも権力に対する抑制的態度、といった方が正確であります。
「誰しも法や習俗より自分の方が正しいと思うべきではない」
むろんこのことは、「目の前にある火種を放置すべき」ということを含意してはいません。

・エスニシティとアイデンティティについて
今日の文化人類学ないし文化論の基本的知見に照らせば、文化とは
「生活の総体」
であります。習俗習慣・労働形態その他全てひっくるめて文化=生活なわけであります。

ここでひとつ、問題が生じます。すなわち、

「脳が、すなわち意識的知性が決定するエスニシティないしアイデンティティに、果していかほどの意味があるのか」

ことはアイヌに限りません。沖縄県民・在日朝鮮人など、いわゆる「マイノリティ」全てに当てはまる問題であります。彼等がいかに自らの出自に沿ったアイデンティティ構築を試みようとも、彼らは近代日本の、さらにいえば近代西欧の生活と思考の様式に絡めとられているわけであります。

すなわち、彼等がいかに自らのアイデンティティを「アイヌ」「琉球」といったところに求めようとしても、彼等の生活すなわち文化はがっちりと近代性に絡めとられている。近代以前のアイヌが送っていたような狩猟と採集中心の生活には、どのような方策を尽くそうとも、彼等は戻れないのです。

彼等のアイデンティティの模索が、枯れ木に新たな枝を接ごうとするがごとき徒労に終わらないか、危惧します。一歩なにかを間違えば、彼等の活動は、教育勅語の復活を主張する街宣右翼のそれと意味論的に無差別のものとなりえます。

古き良き文明が、その命数を終えねばならぬこともある。かくのごとく残酷な現実もまた、受け入れねばならぬこともあるのです。

lister
2015年6月24日19:58

☆先生様さん

保守主義に関しては、自然法という考え方が気になります。何かご存知ですか?

文化に関してですが、操作がしやすいよう、"man-made part of environment"と考えるようにしています。

「エスニシティーのアイデンティティ」ですね。些細な違いに大きな意味を見出すことはありますね。

アメリカ人と日本人は大きく違うのでちょっとした違いはスルーしますが、日本と韓国ではどうでしょうか。針小棒大ですね。ちょっとした違いが大きな意味を持つわけです。

私は、生物多様性が地球生物の存続発展に必要なように、文化的多様性も人類の存続発展に不可欠であると考えます。

また、ある文化のスタートポイントが違えば、その違いは、後々大きな影響として残ります。

近代化はその差異を縮めたかも知れませんが、同じ近代人でも、欧米人や日本人やロシア人は違いますね。

アイヌ人や琉球人には和人が持たない素晴らしい伝統文化があると思いますが、私は不勉強で、よく知りません。私も彼らが日本による支配以前の状態へ戻るのは不可能だと思いますし、そんなことは誰も考えていません。

但し、和人から抑圧されてきた民として、アイヌ人や琉球人は和人にはない歴史観を持っていますし、日本の未来を考える時、そのことが、これら三つの民を分かつのだと思います。

アイヌ人にも琉球人にも己の文化を否定し、自ら進んで和人化しようと努力した人々がいます。

彼らの中には、和人社会で高い評価を得て、完全に同化したかのように見える人もいます。しかし、それらの人々の中にさえ、自らのアイデンティティをアイヌや琉球に求める者は多いのです。

逆に、アイヌ人と琉球人が本当に和人になれるでしょうか。それほど和人社会は寛容ではないと思います。

そして、それでいいのだと思います。日本民族がそんなに均質ではなくても何ら問題はありません。自らのストーリーを自らの語り口で紡ぐ人がいて良いのです。

そうすれば、同じ問題に直面した時、異なる解決法を見つけることができます。

先生様さんのように保守主義者がいることは大切です。しかし、全ての人が保守主義者であればその社会は硬直し、失礼ながら、やがて滅ぶでしょう。

リベラリスト(私がそうだと申しているわけではありません)のように権力との間に緊張関係を持ちながら変化を求める人もいなければ。

ある文化は必ず滅びますが、私は、人類が常に「前」へ、「新しい状態」へ進んでいるとは思いません。同じことを繰り返し、前へ進んだように見えて実は後ろへ戻っている。そんなに新しいことばかりを思いつくほど人類は器用ではないでしょう。













先生様
2015年6月25日3:25

「自然法」とは、ごく大雑把に申せば次のごとく定義できます。
・普遍的かつ理性に沿うもの
・その法源が神もしくは自然の法則にあるもの
ここで言う自然とは「外的現象の全て」と解します。
むろん、新たな概念や技術は、日々生まれ来ます。実定法だけでは対処できないケースが日々生まれ来ると言うことであります。この際、自然法は実定法の補完物となります。このとき自然法は、倫理・道徳と限りなく近い位相をとります。
尤もこれは、宗教人口割合が極めて低い我が国の話で、自然法の法源が「神」となる国においては、事情が異なって参ります。

※文化の多様性について
人類の存続のために、文化的多様性が不可欠であると言う言説には完全に同意致します。しかしlisterさんと私では、その理由が異なることと思料します。

文化的多様性が保たれていると言うことは、必然的に文化的摩擦の種が多数存在する、ということを意味します。
私は、この「摩擦の多様性」こそが、人類の決定的破滅を避けるための死活的に重要であると考えます。

人種的な見地から対立しあう者同士が、宗教的な見地から手を取り合う。
階級的な見地から対立しあう者同士が、趣味嗜好の見地から手を取り合う。

対立軸は、多ければ多いほどよいのです。なぜなら、対立軸の増加は、特定のひとつの対立軸の絶対化を防止する役割を有するからであります。
例えば、ナチス・ドイツではどうだったでしょうか。ナチス政権下のドイツにおいては「アーリア・ゲルマン人 対 他人種」という対立軸のみが絶対化され、他の対立軸は「存在しないもの」ないし「取るに足らないもの」として扱われました。結果、人種的対立軸を根拠としたあらゆる暴力がまかり通る事態を招いたわけであります。

ちなみに私は、アイヌという民族の存在の証まで消し去るべきとはむろん考えておりません。私が問題視しているのは、アイデンティティの問題に政治性が貫入した結果、アイヌの生活実態とアイデンティティのあいだに深刻なずれが生じていることであります。
率直に、「アイヌ的なものに愛着をもつ日本人」でいいではないか、と考えるわけであります。アイヌ本来の生活様式は完全に失われても、アイヌ的なるものは残ります。そしてそのアイヌ的なるものは、おそらく総体的な日本文化に大なり小なり影響を与え続けることでしょう。すなわち、ひとつの生活様式は失われても、生活総体としての日本文化が近代西欧的なるものに一元化されてしまうことにはなりません。それでよいではないか、と思うのであります

lister
2015年6月27日18:28

☆先生様さん

いつも貴重なコメントをいただきありがとうございます。今日は時間が許しませんので後日コメントさせていただきます。

ところで、保守主義の月刊誌というと何を読めばよろしいですか?「表現者」が一番分かりやすいのですが、西部邁のトーンが強過ぎるので敬遠してしまいます。よろしければお教え下さい。

先生様
2015年6月27日23:13

現状、「表現者」が一番まともかと。
他、“will ”等々ありますが、端的に「ことばの低劣な意味における『右』」の雑誌ばかりで、読むにたえません。

西部氏の思想が「反米」に偏りすぎるあまり、バランスを失しているのは確かですが、保守主義の基本線は捉えています。

大東亜戦争やら慰安婦問題やらについて雑文書き散らしている他の学者擬き・評論家擬きよりは、よほど信頼が置けます。

lister
2015年6月29日18:09

☆先生様さん

ありがとうございます。「表現者」を読んでみたいと思います。サピオ、正論あたりはクオリティーの低さで辟易してしまいます。全く仰る通りです。

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

日記内を検索