何も書かないまま随分と時間が経ってしまった。
今日返却日の本(沖縄県立図書館から借りたもの)が3冊あったので、ここ4日間はそれらに没頭していた。
5月以来、沖縄とアイヌ(北海道)に関するものばかり読んできたが、最上級で面白いと書きたい。
そして、同時に、私が琉球についても久志芙沙子さんについても、アイヌ民族についても北海道についても、犯罪的に無知であったことを思い知らされた。
現在も無知であることに変わりはない。
それでも、好奇心の強さだけは誇ることが出来る。
書くより読めの段階だが、今後暫くタイトルのテーマについて拙文を量産する予定です。
これから1人教える。
今日返却日の本(沖縄県立図書館から借りたもの)が3冊あったので、ここ4日間はそれらに没頭していた。
5月以来、沖縄とアイヌ(北海道)に関するものばかり読んできたが、最上級で面白いと書きたい。
そして、同時に、私が琉球についても久志芙沙子さんについても、アイヌ民族についても北海道についても、犯罪的に無知であったことを思い知らされた。
現在も無知であることに変わりはない。
それでも、好奇心の強さだけは誇ることが出来る。
書くより読めの段階だが、今後暫くタイトルのテーマについて拙文を量産する予定です。
これから1人教える。
コメント
以下のコメントをいただきありがとうございました。回答が遅れまして申し訳ございません。
>「自然法」とは、ごく大雑把に申せば次のごとく定義できます。
>・普遍的かつ理性に沿うもの
>・その法源が神もしくは自然の法則にあるもの
>ここで言う自然とは「外的現象の全て」と解します。
>むろん、新たな概念や技術は、日々生まれ来ます。実定法だけでは対処できな
>いケースが日々生まれ来ると言うことであります。この際、自然法は実定法の
>補完物となります。このとき自然法は、倫理・道徳と限りなく近い位相をとり
>ます。
>尤もこれは、宗教人口割合が極めて低い我が国の話で、自然法の法源が「神」
>となる国においては、事情が異なって参ります。
「自然法」は非常に興味深い概念であり、保守主義者の重要なファクターだと思います。いつか体系的に勉強してみたいと思います。E.バークを研究していた保守主義者の先輩が盛んに「自然法」という概念を持ち出していましたが、その時は全く理解できませんでした。
>※文化の多様性について
>人類の存続のために、文化的多様性が不可欠であると言う言説には完全に同意
>致します。しかしlisterさんと私では、その理由が異なることと思料します。
>文化的多様性が保たれていると言うことは、必然的に文化的摩擦の種が多数存
>在する、ということを意味します。
>私は、この「摩擦の多様性」こそが、人類の決定的破滅を避けるための死活的
>に重要であると考えます。
>人種的な見地から対立しあう者同士が、宗教的な見地から手を取り合う。
>階級的な見地から対立しあう者同士が、趣味嗜好の見地から手を取り合う。
>立軸は、多ければ多いほどよいのです。なぜなら、対立軸の増加は、特定のひ
>とつの対立軸の絶対化を防止する役割を有するからであります。
>例えば、ナチス・ドイツではどうだったでしょうか。ナチス政権下のドイツに
>おいては「アーリア・ゲルマン人 対 他人種」という対立軸のみが絶対化され、>他の対立軸は「存在しないもの」ないし「取るに足らないもの」として扱われ
>ました。結果、人種的対立軸を根拠としたあらゆる暴力がまかり通る事態を招
>いたわけであります。
私は「文化=摩擦力」という物理的な考え方はしませんが、先生様さんと私の考えの間にさほどの違いがあるとは思えません。
つづく
>ちなみに私は、アイヌという民族の存在の証まで消し去るべきとはむろん考え
>ておりません。私が問題視しているのは、アイデンティティの問題に政治性が
>貫入した結果、アイヌの生活実態とアイデンティティのあいだに深刻なずれが
>生じていることであります。
>率直に、「アイヌ的なものに愛着をもつ日本人」でいいではないか、と考える
>わけであります。アイヌ本来の生活様式は完全に失われても、アイヌ的なるも
>のは残ります。そしてそのアイヌ的なるものは、おそらく総体的な日本文化に
>大なり小なり影響を与え続けることでしょう。すなわち、ひとつの生活様式は
>失われても、生活総体としての日本文化が近代西欧的なるものに一元化されて
>しまうことにはなりません。それでよいではないか、と思うのであります
確かに文献調査からは、小林よしのり氏同様、そのような見解になってしまうのですが、アイヌ問題という社会現象(アイヌが「問題」であるわけではないのですが)を考える場合、十分なフィールド調査が欠かせません。
私はアイヌ文化なるものを何ら知りませんが、今日まで続いているのならそれなりの価値があるのでしょう。しかし、ネイティブ道民として、その側面からアイヌを考えたことはありません。いや、ありますが、私はその方面について余りにも無知なので、ここでは語りません。
しかし、差別という観点からはアイヌ問題を考えることができます。私は今日のアイヌ問題の99.999%が差別問題だと思っています。自らがアイヌ人であることを祝福し、アイヌ文化に回帰したいと考えている人間はよほどの少数者です。
北海道においてアイヌ人というのは苛烈な差別の対象なのであり、その差別は今日も、これを書いている今も、この瞬間もアイヌ人を苦しめているのです。
何代も前にアイヌとして生まれ育ったことが、現在までその子孫にそのまま引き継がれているのです。負の遺産は何代にも渡って受け継がれます。
改めてこのテーマについて日記を書きたいと思いますが、アイヌとは、徹頭徹尾、政治的な概念なのです。
今は混血が進み、アイヌ語も廃れ、精々が「アイヌ系」の和人がいるだけだと小林よしのり氏は述べますが、その「アイヌ系」である人間がどれほどの差別を受けているか思いも拠らないようです。
黒人社会では、肌の色をブラック、チョコレートと分け、社会的な序列が決まるということを聞いたことがありますが、北海道の和人は、ほんのちょっとしたことでもアイヌを連想させる者がいれば、殺人的な差別にはしります。
アイヌ協会に属している者がアイヌなんだろうと小林氏は考えていますが、アイヌ協会に所属することにどれほどの勇気が必要なことか。大部分の「アイヌ人」はそんな組織を呪いはしても、自らそのメンバーになろうなどとは思わないでしょう。その日の暮らしに追われ、アイヌの協会のことなんぞ考えている暇はありません。
アイヌ人は統計的に把握されていません。大部分のアイヌ人はアイヌ協会や北海道庁の統計調査から漏れています。
アイヌ人とは、生まれた瞬間にアイヌ人となるのであり、後天的にアイヌ人なるものが生まれるのではありません。それが実情です。
北海道の和人の多くはアイヌ人と結婚し子孫を残そうとは思いません。混血によってアイヌ人を消滅させようという試みは簡単ではないのです。
私の周りのアイヌ人にとって、そもそも結婚して家庭を築き子孫を残すことが非常に困難です。経済的な実情から非常に困難です。
こうして、社会を和人の観点から見ることのできない人間が生まれ、それは、伝統文化などいう高尚な概念とは無関係に、和人との間の「摩擦」となります。
「アイヌ民族」などというものは存在しません。それは"people(s)"を外務省が「民族」と誤訳したに過ぎません。「アイヌ(人)」で結構でしょう。しかし、その人々は「アイヌ問題」として存在するのであり、和人と同一視することは全く不可能です。本来的に政治経済的な存在なのです。
思いつくままに書いてきましたので、矛盾した点が多くあると思いますし、理路整然とした説明ではないことをお詫びしますが、アイヌ問題はそんな綺麗事ではないということをご理解願いたいと思います。