特別弁護人と証人の申請が受理された後、1974年3月15日に第6回公判が開かれた。

証人として五木寛之が発言した。その中で論告に影響を与えたと思われる部分があるので抜粋する。

中村弁護人
「まず最初に、簡単にあれ(『四畳半襖の下張り』)をお読みになっての感想というものをおっしゃていただけますか」

五木証人
「これは非常に何といいますか、あれですが、正直にいいますと、読後の感想というのは、なんだ、この程度のものだったのかという感じが先にありましたですね。それからあとに、いくつかの感想は生まれてきましたが、読み終わったときの感じというのは、なんだ、この程度のものだったのかな、という印象でした。」

五木寛之氏の証言を追っていくと、この発言は、この作品がそれほどエロティックなものではないということと、文学的に傑出したものでもないという二つの意味を含んでいる。

続く井上ひさし証人の証言は、『四畳半襖の下張り』が一種の戯作(げさく。近世後期、18世紀後半頃から江戸で興った通俗小説などの読み物の総称。戯れに書かれたものの意。明治初期まで書かれた)であり、艶笑趣味の作品であることを強調する。

1974年4月16日の第7回公判では、作家の吉行淳之介氏と開高健氏が証言する。性というものが文学作品で欠くべからざる題材であることを強調。

吉行淳之介氏の証言が終わったあと平井令法検察官が述べたのは「尋問ありません」の一言だった。井上ひさし氏に対しても質問無し。

1974年6月6日の第8回公判では、吉田精一氏と中村光夫氏が証言した。

吉田証人は永井荷風に関する豊富な知識から判断して『四畳半襖の。下張り』が永井荷風の作であると主張した。

その最後で平井令法検察官は「現在まで、永井荷風の全集と、いろいろ発表されておりますが、永井荷風の全集の中に、この『四畳半襖の下張り』が掲載されていませんですね。」と吉田証人に質問した。

吉田証人が「はい、しておりません」と答えると、平井令法検察官は「これはどういう理由からでしょうか」と質問。

吉田証人は「これは私は編集に関係しておりませんので存じませんけど・・・」と答えに窮する。

勿論、全集に入れれば175条違反で訴訟を起こされるから掲載しないという理由が考えられるだろう。

また、本件文書が永井荷風の作とは限らない、即ち、一般の春本と同じで文学的価値の無いものであるとの印象を与えようという平井令法検察官の意図も感じられる。

次が中村光夫証人だが、永井荷風の文学的位置づけに始まり『四畳半襖の下張り』の感想を述べる。その中に、

「・・・興に乗りすぎてしまって、(男の)セルフコントロールばかり書いていて、ぼくの言葉でいえばコミュニケーションが(主人公の男女の)二人の間にない、そいういう行きすぎまで含めて、これは荷風のものじゃないかと、そんなふうに思うんです。」

という部分があった。これを捉えて、平井令法検察官は、証言の最後に次のような尋問をするのである。

「「面白半分」に掲載されたという『四畳半襖の下張り』の描写につきまして、先ほど、興に乗り過ぎて行き過ぎの部分もあるような証言があったと思うんでございますが、それは具体的にいうと、どういうことになりますでしょうか。」

吉田証人
「興に乗り過ぎたというのは・・・」

平井令法検察官
「その文章のいちいちどこどことご指摘をしていただかなくても結構なんですが・・・。ということは、これは文学作品として必要な描写を越えた描写があるという趣旨でしょうか。」

吉田証人
「そうではありません」

平井令法検察官
「どういう趣旨でしょうか。」

吉田証人
「つまり、文学作品の範囲においてもですね、たとえば三行で書いてもいいことを五行くらい書いてしまうことは、調子に乗ればだれでもあるわけです。そういうところがあるという、そういう意味です。」

平井令法検察官
「これは、先生は永井荷風の作ということでお考えになっておられるわけですが、そして、これの『四畳半・・・』が秘密出版という形にしろ、人の目に触れるようになったのは戦後のこと・・・」

中村証人
「でしょうね。」

平井令法検察官
「といわれていますが、その人の目に触れるということになったとき、これは荷風の意思からこれが人の目に触れるようになったのか、荷風の意思に基づかないで人の目に触れるようになったのか、そのへんのところは、先生としてはどのようにお考えですか。」

中村証人
「そういうことを考えるのは私の職業ではありませんから、よく考えたことありませんけど、それこそ半々ぐらいだったんじゃないでしょうか、面白半分という・・・」

この尋問も、本件文書が永井荷風の作であるという見解を否定する意図に基づいていることは言を俟たない。

なかなかスリリングな応酬である。平井令法検察官の最初の質問に関しては、中村証人の発言の趣旨から考えて、まったくの言いがかりである。第二の質問は筋違い。

先日、検察官が貝のように口を閉ざしたと書いたが、ちょっとした一言を歪曲・誇張し因縁をつける平井令法検察官はかなり饒舌であるというべきだろう。

1974年8月5日には第9回公判が開かれた。証人は雑誌『文藝』の編集長であった寺田博氏で、彼は、このような訴訟を放置すれば実質的な「検閲」が復活してしまうということに警鐘を鳴らす。

寺田証人
「・・・検閲というのは本来、事前にその原稿なり作品なりに目を通すということだったと思うんですけれども、そういうことが戦後になって一切禁じられているにもかかわらず、警察側でそういう作品について、何といいましょうか、事後に介入チェックすると、そういうことはもう非常におかしいといいますか、憲法違反であり、言論の自由を侵害することだと思います・・・」

「・・・私の前任者である編集長がある作品を掲載したことによって、警視庁のその筋の係は何というんですか、風紀係というんでしょうか、そういうところに呼ばれて取り調べを受けたということがありました。」

「それは小田仁三郎という方が書かれた『背中と腹』という作品ですけれども、中年の男女の愛の何といいましょうか、こう非常にむなしさ、悲しさというか、そういったものを実存主義的に描かれた作品です。」

この寺田証人の発言にも平井令法検察官は嚙みついた。

平井令法検察官
「最初の三宅弁護人の質問に対してお答えになった部分について確認したいんですが、証人の前任者の編集長が小説『背中と腹』について警視庁に呼ばれたというのは、その掲載雑誌が発行された前ですか、あとですか。」

寺田証人は明確に「事後に」と述べているわけであって、この質問自体がナンセンスである。したがって、寺田証人は以下のように答えるしかない。

寺田証人
「発行されたあとです。」

平井令法検察官
「証人は、その前に、検閲が禁じられているのに警察が作品に介入して、警察が検閲の既成事実を作りあげているというような趣旨の証言をなされましたけれども、具体的にはそれはどういうことなのですか。」

寺田証人
「それはつまり、検閲というものは事前にするという意味を含んでいると思いますが、戦後は検閲がなくなったにもかかわらず、発行したものについて警視庁が喚問をして、そしてそこで取り調べた。その取り調べの様子というものを私は詳しくそのときに聞いたわけですけれども、「今後は気をつけろよ」というようなことを言われたというんですね。ですから、そういう「今後は気をつけろよ」という言葉が取り調べ官からはかれたということは、これは一種の検閲を、つまりその次にどういう作品がでてくるかわかりませんが、その次に作品がでてくるときにそれを気をつけろというのは、事前検閲をしたということと同じ結果になるということが言えるんじゃないかというふうに思うわけです。」

平井令法検察官
「証人の先ほどのそういう証言は、証人の前任者の編集長が警視庁に呼ばれたと、そういう事実に基づいた証言であったと、こういうふうに理解してよろしいですか。」

寺田証人
「そういうことです。」

証人を委縮させるという意味では、実に的確な尋問である。

同公判では作家の金井恵美子氏が証言したが、こちらに関しては平井令法検察官のお咎めなしという結果だった。

1975年2月21日の代10回公判は大変興味深いものであった。

榊原美文証人は『四畳半襖の下張り』の中に出てくる難解な用語(及び抜粋した文章)が普通人にどれほど読みこなせるかテストあるいはアンケートを実施しその結果を証言したのである。

論告でも判決でも同証人の調査は、正確さや客観性に欠ける、あるいは、かなりの人数が意味を理解しているとして有意性を否定している。

この証言に関しては平井令法検察官の質問はなかった。また作家の石川淳氏の証言についても平井令法検察官は「(質問)ありません」と述べるだけだった。

沈黙が却って不気味というのは私だけの感想ではないだろう。特に榊原証人の調査方法・結果についてはいくつもの質問が必要かつ可能であったと思われる。

この後も、証言者と検察官のやりとり、論告求刑や判決に影響を及ぼしたと考えられる証人の発言を中心にこのわいせつ裁判を見ていきたい。











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