1976年1月22日、第13回公判で斉藤正吉検察官により論告求刑が行われた。

論告要旨は次のようなものである。

先ず、本件文書のわいせつ性についてであが、弁護団と証人の一致した主張は、それが文化功労章を受章した大作家永井荷風の作品であり、芸術性の高い作品であるということだ。

これに対して、斎藤正吉検察官は判例を引いて次のように述べる。

「・・・その文書がもつ芸術性・思想性が文章の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下にわいせつ性が解消されないかぎり芸術的・思想的価値のある文書であってもわいせつの文書としての取扱を免れることはできない」

「近時の社会情勢における性意識の変化等を考慮しても右の基準(判例のわいせつ三要件)に根本的な変更を要するとまでは考えられないのである」という1975年高裁判例を引用。

「まず本件文書の全体は九ページであるが、そのうち閨房(セックス)描写部分が約三分の二を占めており、その分量と構成からしても、本件文書が性行為の描写自体を目的としていることはあまりにも明らかである。その閨房(セックス)描写の内容に立ち入ると、主人公の男が、売女を相手にして、本間取にはじまり横取、本取(正常位)、居茶臼(座位)、茶臼(騎乗位)、そして最後に後取(バック)と、次々に体位を変えながら性交を繰り返し続けていく有様を、具体的かつ詳細に描写したうえ、結びにいわゆるフェラチオの描写にまで及んでいるが、その間に成功に密接するさまざまな性戯を織りまぜ、またこのような性交、性戯に伴う女性の反応の状況として、その感覚の表現、姿態の変化、性器の模様、興奮時における御礼の発しかた、精液の状況等々に至るまで、きわめて大胆な写実的手法を用い、微に入り細を穿って刻明に描写している。ここでは女性が完全に男性の性的快楽の対象あるいは性の玩ろう物として描かれており、約六ページ弱の長文にわたる連綿とした閨房描写は、およそ公然性を憚らずには読むことをができない類のものである。」

本件文書が「永井荷風の作品であるか否かはさておき・・・仮に本件文書が文学的価値のあるものとしても - この点については弁護側証人五木寛之・有吉佐和子両作家が消極的ないしは冷やかな評価をくだしていることに十分留意すべきであり、弁護人の主張にはたやすく左袒できるものではないが・・・その芸術性が文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて可罰性を失わせるまでにわいせつ性を解消させているかどうかを検討してみるならば、本件文書は文章の巧緻きわまる綾と、一読して朗々謡するに足る文章のリズムやいいまわしで(被告人野坂の法廷供述)記述されているが、調子がよくて読み易く(証人金井恵美子の証言)、そのため却って性的刺激が増大・亢進され、わいせつ性はより強まっているといわざるをえない。」

この辺になると、論告要旨のほうが原文よりもはるかに「わいせつ」に響き、また時折失笑を禁じ得ないのである。

また供述や証言を如何にしても、検察側の主張に合致させるため歪曲されており、検察の哀れさを感じるのみである。

また、欧米諸国における性解放の例については、

「・・・最近いかに国際交流が進んだとはいえ、わが国と風俗・習慣・国民性・国情等の全く異なった北欧諸国やアメリカ合衆国等における過度の性解放を、そのままわが国に妥当させようとするのは、わが国の歴史・風俗・伝統等をないがしろにするものであって、到底容認することはできない。」

わいせつか否かは、国ごとに検討されるべきであり、外国の例は考慮するに値しないというわけだ。

更に、長くなるので要旨のみを書くが、マスコミのみだらな出版物が横行すると「わが国民一般の意思の底流に培われている善良な性的道義観念を無視し、健全な性秩序を崩壊に導くことにつながるもの」になる。

「健全な性秩序の崩壊」とはどういう状態を指すのか私には想像できない。通勤途中にサラリーマンが路上で公然と妻以外の女性とセックスするような状態だろうか?

また、本公判における証人は文芸作品を提供する側の人々であり、一般読者との間には大きな隔たりがあると断じるのである。証人の考えが偏っているということだ。

大きな隔たりというなら、それは、一般国民と斎藤正吉検察官の頭の中身に存在する隔たりではないだろうか。

さて、論告要旨は、次の論点、つまり『四畳半襖の下張り』が擬古文で書かれており、中学卒業者を一般的国民と考えれば到底読みこなすことはできないという被告、弁護人、証人の主張を退ける。

「・・・本件文書の古語ないし死語のなかで難解と思わるものが多く見られるのは、殆ど導入部であって、閨房(セックス)描写の部部には難解と認められるものが少なく、そのため右描写部分を読むにあたって難解な古語等のまばらな点在は、さほど障害とはならない・・・」

確かにその通りである。

「・・・弁護人は、「義務教育を受けただけの人を普通人とするなら・・・」との仮定的前提に立ってその主張を展開しているが、これは最近における中学卒業者の高校進学率が、昭和29年に50パーセントを超えてから年々上昇して本件犯行時の昭和47年には約87パーセントに達し・・・その失当なることは言を俟たない。」

では高卒者の擬古文読解能力が如何ほどのものであるかに議論は移るかに見えるが、これは、セックス描写の核心部分は読み易いという検察の主張によって否定されるであろう。

斉藤正吉検察官は、水沢和子証人の例を挙げ『四畳半襖の下張り』を難なく読みこなせる一般人は多いと結論する。証人選定の誤りだったような気がする。

証人に本件文書を読みこなせない人間を選ばなかったことは致命的なミスだ。

「・・・被告人らが雑誌「面白半分」に本件文章を掲載し、2万8千余りの多くの部数を通常の販売方法で取次店などに販売し、延いては国内各地の小売店を通じて広く全国的に流布したことは、被告人ら自身において、本件文書が一般通常人に読解されることを当然の前提として認識していたことを、何よりも雄弁に物語っているものである。」

一般人が読めないものを一般人相手に何故売ったのかという検察の主張はむべなるかなである。被告人には返す言葉もないであろう。

「・・・ある書籍の読者たりうるものが社会一般人ではなく、ある限られた範囲のものにとどまる場合は、その読者たりうるものの普通人・平均人を基準にわいせつ性を判断すべき旨判示していることに注意すべきである。」

例えば、アイスランド語で書かれたものはごく少数の例外を除いて日本人には読めないと考えられるが、英語ならどうかという問題である。

英語を読める日本人は多数いるのであり、読めない者の数も多いなら、その読める者の間の平均人を基準にわいせつ性を考えるべきとの判例である。

ぐうの音も出ない。英語の「わいせつ」作品が書店に陳列されているとして、何%の日本人が、あるいは外人が、それを手に取るだろうか。

榊原証人のアンケート(テスト)だが、一貫性を書いており、私も問題が多いと思う。

斎藤正吉検察官の判断は「(それらのテスト・アンケートは)遺憾ながら不十分のそしりを免れることはできない」というものだった。

最後に、第一審判決でも主要な理論的根拠となっている「性的行為の非公然性」について論告趣旨がどう説明しているか触れておきたい。

「・・・人には性交、性戯などの性的行為そのものを本質的には恥ずべき行為と考えないまでも、反面理性によって本能を制禦し、性的行為については愛情の自然な発露としてこれを醇化し、精神的により高次なもの、より高尚なものに高めようとする傾向をもっており、時と場所を無視して本能のおもくむままに性的行為に及ぶことについては、自分の動物的本能を見すかされるものと感じて羞恥心を強く抱くのを常とする。・・・もしこの性的行為非公然性の原則が否定されるような現実の性行為が社会に○○(読めず)し、また現実の性的行為の公開にも匹敵するような露骨な刺激的文書が広く社会に流布され氾濫するときは、人々の性的道義観念が麻痺し、善良な性風俗ないし健全な性的秩序に混乱と崩壊を招くことは必至であり、人々のもつ性に対する関心や欲求は一層過度となって、やがてはとどまるところを知らなくなることも必定である。」

セックスはコソコソと人に隠れてすることで、人々はそれを望む(性的行為の非公然性)、と。

仮にそれを認めたとして、『四畳半襖の下張り』を人前で堂々と読むことが憚られるということと性的行為の非公然性がどこで結びつくか甚だ疑問である。

『四畳半襖の下張り』は文章であり、性的行為ではない。

それにしても独断的なセックス観である。教育勅語を読んでいるかのようだ。高次で高尚なセックスをしたことがない私はまるで

コメント

lister
2017年2月19日20:07

続きが書けませんのでここに書きます。

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